縁起
内々神社は「延喜式」神名帳に記載されるいわゆる「式内社」であり、景行天皇の41年に創建されたとされる。伝承では、日本武尊の東征に随行した主祭神であるタケイナダネノミコトは、駿河の海で落水し絶命した。それを伝え聞いた日本武尊が「ああうつつ(現)かな」と歎いたことが社名の由来となっているとされている。景行天皇の存在自体が歴史学的には疑問視されているので、このことは古い時代に創建されたと言うこと以上の意味を持たない。しかし「延喜式」に所載されているかどうかは重要な問題であった。後述するが、明治政府は神社を昇格(より上位の社格にすること)させる際には「式内社」であることを一つの条件としたからである。内々神社は江戸時代には既に著名な神社であったらしく、江戸中期の神道家であり、尾張東照宮の祠官でもあった吉見幸和は『妙見宮由緒書』を著し、妙見宮と呼ばれた内々神社の創建の由来を研究している。その他『張州府誌』には「在内津村俗云内津妙見祀尾張建稲種命」「妙見寺属野田村密蔵院天台宗僧掌之神故而以佛名内津妙見菩薩」とあり『尾張徇行記』『尾張記』『尾張名所図会』などにも内々神社の名が見えている。また松尾芭蕉の弟子で尾張藩士でもあった横井也有は俳文集『鶉衣』に内々神社の記事を残している 。現在の社殿は幕末に完成した。社殿の構造はいわゆる「権現造」であり 、軒下や向拝には「立川流」 と呼ばれる華麗な彫刻が施されている。権現造りであることは、内々神社と仏教との関係を象徴しているように、私には思える。また本殿の裏には夢窓国師作と伝えられる日本庭園があり社殿・庭園とも愛知県文化財に指定されている。造園史や建築史、彫刻史の研究者が度々来社することから、歴史的な価値があると思われる。宝物蔵には「湯立神事」に使用した釜が残っており、その銘によって篠木荘33か村の総鎮守として崇敬を集めていたことが分かる。「内津村」は 慶長年間(1596~1615年)の検地では春日井市内唯一の無高の村であった。山裾と街道とのわずかな地面に張り付くように民家が点在し水利がないため稲作は不可能であった。そのため陸運や薬種の販売などに糧を求めていった。尾張と美濃を結ぶ街道は「下街道」とよばれ、内津の「津」という字が示すように、交通・流通の拠点であった 。前述の『鶉衣』にある「薬を鬻ぐ家」とは内津に現存する「鵜飼家」のことであり、薬種問屋として栄えていた。寛文年間(1661~1673年)の内津村の戸数は53戸で人口は310人、文化年間(1804~1818年)には57戸で人口241人であった。明治7年には105戸になった。明治33年の中央線開通により、宿場町としての機能が低下し、従来の商業活動は衰退の一途をたどった明治45年の『明治神社誌料・府県郷社上』 には氏子戸数1133戸とある。。
この社殿の建て方は、本殿と拝殿を中間の幣殿で連結したいわゆる「権現造り」です。屋根は銅板葺で、昭和56年に檜皮葺から変更されました。本殿は桁行が三間、梁行が二間で、前面に庇をもつ三間社流造りです。組物はツノのように斜めに出た材、丸彫りの尾垂木が入る二手先であり、妻に出る母屋をうけるところに持ち送りがあります。幣殿は、桁行が二間、梁行が一間で、本殿から一間分離れてたち、梁行正面の幅は本殿に揃えていますが、柱間は一間で吹き放しています。天井は小組格天井、床は拭板敷で、拝殿と高さを揃えています。拝殿は、入母屋造りで正面中央に一間の向拝があり、軒中央の唐破風と大屋根正面中央に立ち上がる千鳥破風とが重なり、正面感が強調されています。前の正面一間は広く、中に8本の引き違い格子戸をはめ、両脇の間は舞良戸が引き違いとなっています。向拝と拝殿とを丸堀の竜の海老江梁でつなぎ、拝殿の三方を擬宝子高欄つきの縁でまわしています。また拝殿には、頭貫に沿って三十六歌仙の額が掲げられています。近世後期に大きな足跡を残した立川建築で、立川富棟、富之、富方親子が10年余りの歳月をかけたもので、文化年間(1804~1818)に完成しています。建築様式、彫刻の美など江戸時代後期の傾向を示すものであって、県下に現存する近世神社社殿を代表する貴重な建築物です。
南北朝時代の名僧、夢窓国師(1275~1351)によって作られたと伝えられており、国師作庭の西芳寺庭園(京都)などと同じ廻遊式林泉型のものです。庭は社殿の裏側にあって、少しの平地と急斜面を利用し、南北につくられていまうす。神社裏山の自然の岩が巧みに取り入れられ、三大巨石、特に中央の天狗岩が高くそびえ、影向石(神仏が来臨して一時姿を現す石)をなしています。石組みといい、庭樹の茂みといい、山の斜面や池畔を美しく飾っています。戦前までは、池に70cmを超えるような大きな真鯉が群をなして泳いでいました。また、亀もたくさんいて水辺の岩に休む姿もよくみかけられました。この亀は、内々神社の祭神、建稲種命の霊が駿河の海から亀に乗ってこられたとの伝えによるもので、古くから近在の河川で亀をとらえると、神の使いといって、お酒を飲ませてこの池に納める風習うがありました。
御舞台(市指定・有形民俗文化財)
この御舞台は、神社の例祭に使用されたもので、壇尻楽車とも書き、俗に「だんじり」、「やま」、「だし」ともいいます。社殿を建立した立川内匠が製作したもので、天保6(1835)年5月の積書には「信州諏訪 立川和四郎」とあり、完成は天保8年となっています。文政8(1825)年より参拝者や内津宿の泊まり客に奉加(寄付)を請い、その浄財をもって完成したものであるといいます。かつては、この御舞台の上に大太鼓、附太鼓、鼓、笛のお囃子で、稚児や獅子舞などをして、下街道を下町のお旅所まで引いたものです。(現在は社前で神楽を奉納)高さは5.7m、台車は長さ4.1m、幅3.4m、屋根は長さ5.3m、幅4.0mで、材料は車輪が欅、他は檜を用いています。 |
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御朱印を希望される方は、日曜日・祝祭日の9時より15時までに社務所にお越し下さい。 |
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